こんにちは

障がい者シェアハウス フィレールです🏠🌱

今回は岡﨑天佑代表にクラウドナイン株式会社、そしてフィレール設立の経緯を伺いました。

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クラウドナイン株式会社は、「助けが必要な人々に手を差し伸べる」為に設立されました。

なぜこう考え設立したのかお伝えするにあたり、まずは私の背景についてお話しようと思います。

私は、いつも周囲の人に支えられ、運のいい人生を歩んできました。

柔道の経験を持つ両親のもとに生まれ、私自身も幼い頃から当然の様に柔道に、嫌々ではありましたが取り組んでいました。

当時、毎日のように言われていた「天佑、男なら強くなれ、諦めるな、頑張り続けろ。」という言葉は今でも鮮明に覚えています。

私は幼いころは気が弱く、臆病かつ生意気でした。三人兄弟の真ん中で、兄弟の中でも誰よりも手がかかっていたと思います。厳しく育てられるも、それに応えることができず、子どもながらに不甲斐ない思いをしていました。

それでも両親は「諦めるな、頑張れ。」と優しく根気強く育ててくれました。

そんな私も歳を重ねるにつれ、運良く周囲の同年代よりも身体が大きく育ったことが幸いしたのか、スポーツの成績も伸びるようになりました。

中学校に上がる頃には、積み上げた実績と、直向きに努力していた姿を見てもらえたこともあってか、周囲からの評価も、「気が弱い」から「頼りになる」に変わっていったように感じます。

この頃には、「嫌々」していた柔道が、私の人生の中心になっていました。

変わることができたのは、私一人の力ではなく、私を慕ってくれる家族や友人をはじめとする、周囲の人たちがいたからです。

私にとってその人たちが何よりの宝物で、私は本当に環境や人に恵まれたと今でも思います。

高校生になってからも、さらに成績を伸ばし、1年生の時から大学のスポーツ推薦の話が出るほどでした。

この先も、柔道を中心に自分の人生は動いていくのだ。もし、社会にでて、柔道を頻繁にする機会がなくなったとしても、将来は体を動かす職業に就職し、死ぬまで一生スポーツをして生活する人生を歩んでいくのだと信じて疑いませんでした。

そんな時でした。

高校二年生の時、私は大事な試合中に右膝に負傷してしまいました。

柔道が全てだった私は、少しでも早く、少しでも良くなって欲しいと思い、すぐに専門家のいる病院に駆け込みました。

診断は、前十字靭帯の断裂とロッキング。手術の必要があり、少なくとも半年は柔道ができないと宣告されました。三年間という短い高校生活で半年もブランク抱える、更に代替わりの時期と被っており、最後の大会に復帰が間に合うかどうかといったギリギリのタイミングでした。

正直、絶望しましたが、ここでも諦めずに頑張ろうと自分のできる最大限の努力をしました。

その努力の結果もあってか、部活動に半年以上参加できないにも関わらず、主将に任命してもらったり、周囲の期待に応える為に真摯に怪我の治療に向き合い、早期復帰に尽力しました。

しかし、手術をしたのに、リハビリをしているのに、痛みも動きの制限も一向に改善しませんでした。

何故、こんなにも動かないのか、痛いのかと、主治医の先生に尋ねても、「わからない」の一点張り。自分の努力が足りないのかと、後は何ができるんだと自問自答を繰り返す日々でした。

そんな中、近づく高校最後の試合。どうしても最後の大会だけでも出場したいとギリギリのタイミングで復帰しました。かなり無理をしていた為、その時も、膝の痛みが強烈で毎回の練習でテーピングを3本以上消費して練習を行うほどでした。

柔道が出来るならそれ以上はないと支えてくれる部員や監督。睡眠時間を削ってまでサポートしてくれる家族、周りの支えがなければ、ここまで出来なかったと思います。本当に感謝しています。

結局、思うような試合結果ではありませんでした。悔いが無いと言えば嘘になりますが、これ以上ない位やり切ったと今でも思います。

その後は、怪我のことも有り、私が志望していた大学からの推薦は取り消され、固まっていた大学への進路探しは高校3年生の9月という遅すぎる次期から、再スタートする事になりました。

なんとか大学への入学が決まりましたが、その頃は痛みのせいでまともに生活ができなくなっていました。耐えかねて、病院で膝の水を抜く処置をしてもらうと、細かな骨だらけでてきました。主治医の先生もかなり驚くような症状だったそうですが原因は不明。色々なことが有耶無耶のまま退院しました。

退院後も痛みは増すばかりで、膝の中からくる激しい痛みは毎日のように続いていました。私は覚えていませんが、その頃、膝の痛みが酷すぎて毎朝叫び声と共に起きていたと母親から聞いています。通学も困難な為、かなり早い時間に家を出て、通学路で休みながら長時間の通学していました。

そんな状況でも、スポーツをして生きていく事が夢であった私は、柔道部に入部を考えました。しかし現実的に、痛みの酷さと膝の可動域の少なさから、柔道選手としての限界を感じていました。

人生の中心だったものから離れなければいけないという事実に、悔しくて諦めきれませんでした。

どうにかして柔道に関われないか検討し、高校の柔道部に外部のコーチとして参加する事にし、加えて、自分でも何か新しく始めようと思いました。

できるスポーツは限られてくるので、少しの時間かつ、得意で無理ない事だけできるスポーツを探し、トレーナー兼選手としてアメリカンフットボール部に入部する事にしました。今の私でもチームに貢献できる事や自分に出来るとこが見えてきて、柔道が出来ない想いをぶつけていこうと、大学生活が楽しみになっていました。

ですがその頃の私は、形容しがたい、膝の骨が削られているような、中から来るジワジワとした痛みに襲われる毎日を送っていました。痛みに耐えかねた私は、大阪市立大学附属病院(現 大阪公立大学附属病院)にお世話になることになります。

長くなったので今回はこの辺りで。

次回、代表を苦しめた膝の痛みの原因が明らかになります。

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